飯岡直樹の履歴書

[最終更新日:2023年1月15日]

マックスストーン代表の飯岡です。
ご覧いただきありがとうございます。

この自己紹介記事は、これから出逢う方々に向けて書かせていただきました。
私がどんな親元に生まれ、どんな育ち方をし、社会人になり、独立して現在に至るまでの履歴書です。
どうぞ最後までご覧になってください。

生い立ち

私は1966年4月6日に東京の赤羽で生を享けました。
父親は大工、母親は洋裁、ものづくりの両親の元で育てられます。父親は大の野球好きで、私を小学2年生から硬式の野球チームに入団させます。チーム名は世田谷タイガース(現世田谷ボーイズ)です。
ただ野球をはじめると同時に、両親の夫婦喧嘩もはじまります。父親は左利きを強制し母親は右利きを強制、私は夫婦喧嘩を見たくなかったためそれぞれの両親の前では強制する利き手を使うことになります。これにはとても困りました.....(笑)
しかし左右どちらの手でも物書きできるようになったことは不幸中の幸いです。

高校時代

右が父親、左が私

硬式野球は中学校卒業まで続けます。上の写真の背番号は1番ですが、決して野球が上手だったからではありません。生年月日順に背番号が決められていました(私は4月6日生まれ)。
高校野球で全国大会に出場するため、駒澤大学高等学校を受験します。しかし残念ながら不合格、第二志望の保善高等学校に入学することに。しかしこの保善高校の野球部は軟式でした。仕方なく入部しますが、途中物足りなくなり1年生で退部。目的を失った私はそれ以降糸が切れた凧のように、勉強もそっちのけで新宿歌舞伎町のディスコ通いの日々を送ります。
お金欲しさにアルバイトもはじめました。ファミマ・ローソンと渡り歩き、最後はガソリンスタンドに落ち着きます。大学に進学するつもりはなかったため、高校卒業後はそのまま出光の看板を掲げたガソリンスタンドに就職します。

このガソリンスタンドでは接客などのサービスの基本を学びました。危険物の資格を取得し灯油配達を任され、冬は夕方になると毎日配達に出ます。この配達の経験によって営業の基本を学ぶことになります。私が配達拠点に到着すると数人の方が配達車に集まります。この集まったお客さんにどんな声をかけるかが重要でした。お客様が喜ぶ話題で切り出すと、お客様は上機嫌になり会話が弾みます。するとその会話に引き込まれるように近所の方が次から次へと灯油缶を持って集まってきます。私は元々人と話をすることが好きだったため、苦になるどころか楽しくて仕方ありませんでした。

こんな配達をしていたためスタンドに戻る時刻はいつも閉店過ぎ(笑)。いつも所長に叱られますが、荷台のタンクが空になっていることを確認すると所長は褒めてくれます。叱られた後に褒められるギャップはとても心地よいものでした。この灯油配達の体験で私は

「人は人から商品を買う」

ということを学びます。

営業を本格的に学ぶ

ガソリンスタンドに2年も勤めたころでした。偶然スタンドに高校時代の同級生が訪れます。彼はお金持ちの息子で有名大学に入学していました。高校時代もあまり好きになれ友人でした。
その同級生は車を降り、スタンド一面を見渡した後私にこう言い放ちます。

「おまえ、こんなところで何やってんの?」

プッツーン!とキレるとはまさにこの時のことをいうのでしょうか、怒りを抑えている私を見たスタンドの先輩はすかさず私を他のお客様の車に移動させます。その後遠巻きに見ていると、同級生は私を指さし交互に自分の高級車を先輩に見せ自慢しているようでした。

このことがかなり悔しかったのでしょう。翌日所長に退職願いを提出します。
そしてすぐに転職活動をはじめ、高卒の私は営業の仕事で身を立てることを決意します。

転職活動で注目していた会社がありました。新日本工販(現:株式会社フォーバル)、大久保秀夫社長の提案力や交渉力の高さを雑誌で知りこの会社でどうしても学びたいと思い実際に面接を受けに行きました。
面接後しばらくして結果連絡が入ります。不採用でした......。理由を聞くとこうでした
「ごめんね。うちの会社は20歳未満は入社できないんだ」
私は4月6日生まれ、面接を受けた日が3月上旬だったためまだ19歳。なので4月6日過ぎに再び面接を受けに行きます。
同じ面接官でした。「君、先月一度断ったのよね?」私「はい。4月6日で20歳になりました!」
面接官は大笑いしその場でしばらく待つようにいわれます。暫くして正式に採用通達書を受け取りました。

この会社では営業を徹底的に叩き込まれます。一番お世話になった方は伊藤秀博氏でした(その後レカムジャパン株式会社を起業)。伊藤氏の営業成績は素晴らしく社内で幾度となく表彰されていました。その教えのおかげで私の営業成績も日に日に上達し、私も社内で幾度も表彰されるようになります。

入社後1年も過ぎたころでしょうか、他の課の営業課長から声がかかります。
「会社を設立するからおまえも来ないか?」
この当時Canon製品に魅力を感じていた私は、Canon販売(現:キヤノンマーケティングジャパン株式会社)への転職を考えていました。
しかし会社の立上げから一緒に体験できることは貴重です。聞くと「Canonの製品も扱う」とのこと、そして声をかけていただいた中沢さんは経営に長け、谷川さんは営業に長けています。もう迷うことはありません、株式会社ベーシックシステムにお世話になると決めました。

以降約20年間株式会社ベーシックシステムで営業を学びます。中沢社長から教わったことは「どんなに会社が厳しくとも従業員の給与は絶やさない」こと、そして接客では「お客様のクレームより先に、その先のお客様のクレームに対応すること」
谷川専務からは「お客様が喜ぶには、お客様に仕事を運んでくるお客様を喜ばす」ということでした。
今思い返すと、お二人共お客様に直接ではなく「お客様に仕事を運んでくるお客様」を重視していたことがわかります。このことが6年後私に大きな影響を与えます。

入社20年目の2007年6月12日。社長や専務の期待を裏腹に私は起業を決意します。
その日の夕方社長室に入り自分の意志を伝えます。
床に土下座し「どうか私に独立するチャンスをください!」
沈黙はしばらく続きます。中沢社長がたたくキーボードの音だけが聞こえてきました。
毎月700万円の売り上げがなくなるのですから正直会社としては痛手です。
しかし中沢社長は私の決意を汲んで「わかった、顔張れ!」と言ってくれました。

退職後しばらくして退職金が入金されます。その額半年前に退社した同期の倍。
恐らく社長と専務が話し合った上で決定した額だったのでしょう。「顔張れ!」というお二人の気持ちが、通帳から痛いほど伝わってきました。

起業の経緯

前職での私の営業スタイルは、お客様の困りごとを「何でも解決する」ことでした。何でも解決するので、販売していたコピー機とまったく関係ないことも対象です。このスタイルが後々独立への道を拓くことになります。
2005年頃になると、お客様の困りごとは徐々にインターネット絡みの内容に変わっていきます。
「競合会社がさぁ~、こんなもの作って(ホームページ)うちのお客さんを持っていくんだよね、なんとかならない?」
その後もネット絡みの困りごとが徐々に多くなっていきます。
「このままコピー機屋を続けてお客さんの困りごとを解決できるのか?」と不安になっていた時期でした。

そんな不安を抱えたまま2年が経過します。そんな折、神田神保町にある中堅ゼネコン会社で、約10年かけて実現した「全社Canon複合機」最後一台のリプレースの納品日を迎えます。
納品後会長室にあいさつに伺うと、「話があるから座りなさい」と言われます。会長の話は10年前に初契約をいただいとき(当時は取締役)の話しから始まり、実は今月で引退するという寂しい話しでした。そして最後に私の迷いを吹き飛ばす言葉をいただきます。

「君のおかげで社員は皆仕事がしやすくなったと喜んでいる。でもね、君のおかげでうちが儲かったわではないんだ」

このお話しを聴いた瞬間は、まったく意味が理解できませんでした。意味がわかったのは一週間後です。

「お客さんに利益を運ぶ商売をしなさい」

この会長のお話しをきっかけに、Web屋として独立する決心を固めます。
2007年5月11日でした。

起業、そして母からの無言のメッセージ

起業後1年間はご祝儀の仕事をいただき食べることはできましたが、2年目からはパタッとご祝儀が来なくなります。それでも自分には営業力があると過信していた私は、新規営業を開始します。
しかし話を聞いてくれはするもののまったく売れません。それもそのはず、前職で営業成績が良かったのは「Canonブランド」があったからということに気付きます。お客様からしてみれば、マックスストーンなんて社名は見たことも聞いたこともありません。興味本位に話は聞いてくれますが、それ以上はありません。最初の挫折でした。

そんな私もやっと起業後3年目から食える程度の売上を稼げるようになります。しかしここで欲が出ます。一発勝負とばかりにオンラインツールを3度開発します。しかしまったく売れません.....。
ここで創業融資も、せっかくいただいた退職金も全て使い果たします。今でも忘れませんが、月末会社の口座残高が、127,000円しか残っていなかったこともあります。起業から4年目のことです。

次に訪れた試練は、2011年3月東日本大震災。この震災で予定していた仕事も全てなくなります。私は震災の影響がなかった関西に仕事を求めます。しかし営業の勝手がまったく違い不発に終わります。
東京に戻り過去のお客様を訪問すると、「東京から逃げた」と言われ鳴かず飛ばずに。今になって思い返せば、軸がなくとてもブレていた時期でした。

そんな状況の中、次の試練が訪れます。
2013年5月14日。前々日の母の日から胸騒があり、この日は昼から世田谷の実家に足を運びました。玄関の呼び鈴を鳴らしても応答がありません。居間入ると昼間なのに電気がついていました。お袋の姿が見えないためと呼びかけると、キッチンに横たわったお袋の足が見えました。
急いでキッチンに向かうとお袋は倒れており上半身は裸、抱きかかえると意識があるものの私を見ても誰だかわかりません。すぐに救急車を呼び数分で救急隊が到着、救急隊員が救護に入ったことを確認し玄関の郵便受けに走りました。そこには7日分の新聞が重なっていました。

世田谷区の関東中央病院に搬送され手当を受けます。主治医から呼ばれ病状を聞くと脳梗塞でした。
ポストに新聞が7日間分あったことを伝えると、主治医はその期間の気温を調べ私に見せながら言いました。

「最高気温28度、最低気温11度、食事も採らず水分も採らず、そんな状態の中7日間生きていたのはまさに奇跡です!」

その後病室に戻ります。それからずっとお袋の手を握っていました。夜の10時過ぎに看護師さんが「だいぶ落ち着いてきたので、今日はもうお帰りになっても大丈夫です」言われ、一旦自宅に帰ります。

帰宅してすぐお袋と同じように上半身裸になり、廊下で横になりました。
床がとても冷たいんです.....。
涙が止まりませんでした。

その直後病院から連絡があります。

「お母さんが危篤です!」

すぐに車で駆け付けると、看護師さんがお袋にまたがり心臓マッサージの最中でした。
それから間もなく母は天に召されました。
享年75歳。

亡くなる2年目に撮った最後のツーショット写真

この日お袋は私を呼びよせました。私に何か伝えようとしていたんです。
それからの私は、「お袋は俺に何を伝えようとしていたのか?」考える日々を送ります。

躍進の兆し

2014年正月、私はお袋が残したメッセージ追い求め、何を思ったのか旧東海道五十三次を歩きはじめます。東京の日本橋から始まり京都の三条大橋までの512kmの旅です。
一歩一歩歩くことで、普段は見過ごしてしまう景色もゆっくり見ることができました。いまだに江戸時代と同じ景色が見える場所もあるんです。その景色はとても綺麗で美しかったことを覚えています。

「人は自分の目で見たものから影響を受けアイデアを生み出す。」

高速道路や新幹線から見た景色から生まれたアイデアとは競合しない何かがあるという考え方が芽生えます。

旧東海道、沼津にて

旧東海道五十三次を歩きは土日に行っていました。10月に三重県に入る頃、一つのアイデアが生まれます。

「動画Web」

まさに2014年は動画元年の年、今後この動画をどのように活用するかがビジネスのカギでした。
弊社は2007年にWeb屋として起業し、これまで7年間ずっとWeb制作一筋でしたが、このWebに動画を絡ませる一つのアイデアが生まれます。

それから試行錯誤を繰り返し3年、そのアイデアが東京商工会議所に採用され2016年5月19日に動画活用セミナー講師として初登壇、その評判は中小機構・三井住友海上・板橋区振興公社・東京都中小企業診断士協会などに広がっていきます。
セミナーに登壇したことで多くの企業からお仕事の依頼を受けるようになります。2017年には経産省のIT導入支援事業者にも認定されました。製作費の約2/3が国から補助されるようになります。この補助金制度のおかげでお客様の負担も大幅に減らせるようになりました。
まさに会社の経営理念に掲げた「ニッポンの中小企業の事業継続を支援する」基盤が整った時期です。

の仕事

2018年10月24日、念願であったビルのワンフロアーのテナントを借りられるまでに成長しました。
場所も新宿駅から徒歩6分の好立地です。
その新しい事務所のオープニングイベントで宣言します。
「これから私の仕事は社員を幸せにすることです。そして社員がお客様を幸せにします!」
この宣言は、前職を含め約30年間で私の元を離れた21人の部下への償い、そしてお袋が最後に私に伝えたかったメッセージだと思っています。

しかし当時の私は、人材育成の右も左もわからない状態でした。
ただ願いは届くものなのですね。その後人材育成に長けた3人の方に出逢います。
その3人の師からいただいた言葉をご紹介します。

「偉大なる経営者とは、部下が仕事をできるできないに関係なく、信じる勇気と覚悟を持った者だ」
大垣 雅則氏(元PASMO初代社長)

「同じ靴を数カ月履けば、人により靴の形が変わります。君は自分の靴を基準に部下を評価していないか?」
「一輪の花があります。角度を変え何度も撮影すると、また違った良さがあることに気付きます。君は幾つの角度から部下を見ていますか?」
大島 誠氏 (元MUFJグループ会社社長)

「氷山は、水面上の見える部分と水面下の見えない部分がある。見えない部分が大切だ!」
吉田 裕児氏 (元大手建設会社重役)

2019年秋西新宿甲州街道脇にて。私の左が大島師、右が大垣師

この3人の師からさまざまなことを学び、2つの重要なことに気付くことができました。

  • 一番変わるべきは社長自身
  • 社長は社員に育ててもらうもの

この時点では、まだまだ全社員から信頼されているとは思えませんでした。信頼口座の残高はゼロに等しく、もしかするとマイナスかもしれません。
しかし先の宣言から誰からも「辞めたいとは言われていません」
社員も私が変わることを待ってくれているのだと思います。
その期待に応えるよう、日々社員を幸せにする勉強を続けました。

新型コロナウイルスへの挑戦

2020年1月新型コロナウイルスが猛威を振るい出します。さまざまなお客様から悲鳴とも言える相談がひっきりなしに届きます。
その困りごとの多くが「非対面会議に慣れていない」こと。
弊社は「ニッポンの財となる中小企業の事業継続を支援する」という企業理念を掲げています。この理念を掲げた経緯は、私がこれまで数えきれないほどの中小企業の皆様から学ばせていただいた恩を返すという決意が込められています。ニッポンの中小企業はアナログ重視です。アナログですが「温かい接客経験が豊富」です。

アナログという本質の良さを、デジタルという手段で活かす。

Amazonは商品も豊富でスピーディーに商品を購入できます。しかし人の温かさは感じません。
対してニッポンの中小企業はどうでしょうか?
人による商品開発、人による販売、いずれも人を重視した温かさがあります。

「人は、この人から買いたい」
これは時代が変わっても商売の本質だと思っています。

この答えを出すために、アナログの良さをデジタルの非対面でも活かす方法を、会社を実験台にし試行錯誤を繰り返しています。

対面でも非対面でもビジネスを展開できるニッポンの中小企業のハイブリット化

弊社が存続する限り、ニッポンの財となる中小企業の事業継続を支援することを諦めずに考え続けます。